@article{oai:chuo-u.repo.nii.ac.jp:00012032, author = {川越, 泰博}, journal = {人文研紀要}, month = {Sep}, note = {application/pdf, 洪武三十二年(一三九九)七月、北平(のちの北京)において、「奉天靖難」を名目に挙兵した燕王は、およそ三年をかけて南進し、同三十五年(一四〇二)五月には、招募・垜充・志願・帰順等によって得た兵力を自軍に組み込み増強した大軍を率いて、長江北岸の江北に姿を現した。目前に望む長江の渡江が成功するかしないかは、靖難の役の勝敗を占う重大な試金石でもあった。就中、進軍ルートの多くを陸路にとって南下してきた燕王軍は、河口ではその川幅が四〇㎞もあるという長江(揚子江)の渡江を可能にする軍船も水手もほとんど帯同していなかった。そこで、海防体制の一翼を担う江北の諸衛に対して、投降を促す令旨(命令)を発した結果、沿海衛所である揚州衛・高郵衛等では燕王への朝見、投降・帰順が相次いだ。彼らは燕王軍に組み込まれ、その多くは燕王軍の将兵を舶載した軍船のパイロットとして活動し、わずか三日にして渡江を完遂し、さらにはそのまま従軍して南京城総攻撃に加わり、永楽政権成立の橋架となる多大な軍功をあげたのである。しかしながら、永楽政権成立後に制定された「武職新旧官襲替法」において、衛所官が新官と旧官とに大別されたとき、彼らは建文帝麾下の軍勢であることを意味する旧官に入れられ、世襲の際の優給制、家族の経済的セーフティーネットに関わる優養制においては、新官に比べて大きな差異をつけられたのである。その扱いはおよそ嘉靖年間まで持続したのであった。}, pages = {83--115}, title = {洪武三十五年の燕王軍渡江と江北の人々 ―とくに『高郵衛選簿』にみえる事例を中心に―}, volume = {94}, year = {2019}, yomi = {カワゴエ, ヤスヒロ} }