@article{oai:chuo-u.repo.nii.ac.jp:00013548, author = {川越, 泰博}, journal = {人文研紀要}, month = {Sep}, note = {application/pdf, 燕王が挙兵して靖難の役が起こると、大寧の寧王府と広寧の遼王府は、北平の燕王府の後背に立地しているので、建文政権は燕王軍をその後背から控掣する軍事力として取り込むため寧王・遼王両王に対して南京への召還命令を出した。遼王はそれに応じていち早く南京に帰朝したが、寧王は燕王軍の攻略を受けて、その麾下に入った。遼東都司下の遼東軍は遼王が京師に帰還する前からすでに建文政権軍の別働隊として活動した。遼東軍の侵攻先は永平・通州・直沽・保定などであるが、それは靖難の役の戦局を転換させるほどの軍事的成果を生まなかった。遼東には靖難の役直後、左軍都督府左都督劉貞が鎮守遼東として送り込まれ、遼東都司所属衛の軍馬をその節制下に置いた。さらに薛貴(脱火赤)が遼東都司都指揮使に任用された。これに加えて、燕王軍の一部の将兵が遼東諸衛へ配置換えされた。これまで燕王軍と敵対してきた遼東の軍勢を取り込むための、遼東に対するこうした軍政政策の効果は、早くも永楽元年(一四〇三)には現れ、遼東諸衛による哈剌温(フラウン)方面など女直(ジュシェン)に対する招諭活動が活発化した。永楽帝の満州経営は太監亦失哈(イシハ)の遠征以前からすでに始まっていたのである。}, pages = {81--116}, title = {角逐 ―燕王軍と遼東軍と}, volume = {100}, year = {2021}, yomi = {カワゴエ, ヤスヒロ} }