@article{oai:chuo-u.repo.nii.ac.jp:00007978, author = {通山, 昭治}, issue = {4}, journal = {比較法雑誌}, month = {Mar}, note = {application/pdf, 本稿(「研究」)では,まず「1954年憲法の実施状況の消極面について」ふれ,ついで1970年「憲法改正草案」についてふれた。この1970年「憲法改正草案」は,1969年4月の第9回党大会における党規約の改正を受けて,毛沢東主導による中央政治局を中心に策定されたものであった。それは,林彪を毛沢東の後継者にするなどの文言が明記されたいわば異形の「憲法改正草案」であったが,その後,1971年9月の林彪事件などをへるなかで,1973年8月の第10回党大会における党規約の改正を受けて,1975年憲法が1975年1月の第4期全国人大第1回会議で採択された。それは林彪を毛沢東の後継者にするなどの文言を削除したものの,1970年「憲法改正草案」とほぼ同じものであった。  毛沢東の死などによって「文化大革命」が基本的に収束しはじめた過渡的な時期にあった1977年8月の第11回党大会における党規約の改正を受けて,これまた華国鋒主導による中央政治局を中心にして策定された1978年憲法が1978年3月の第5期全国人大第1回会議で採択された。  このように,1970年代における中国憲法の「改正」作業と手続は,党大会における党規約の改正が先行し,それにそくして中央政治局が中心となって「改正」草案を作成し,全国人大で採択するというものであった。  本稿では,1975年と1978年の2つの憲法の「特徴」(問題群)の整理が中心的なテーマである一方で,その内容にそくして中国歴代の憲法をあらためて名づけなおすと,そのときの「最高指導者」とその象徴的な地位(とくに「主席」という地位)に着目して,1954年憲法は「毛(国家)主席の憲法」,1975年憲法は「毛(党)主席の憲法」,1978年憲法は「華(党)主席の憲法」,そして1982年憲法は「鄧(中央軍事委)主席の憲法」とそれぞれ名づけることも可能であるが,本稿における考察を通じて,鄧小平主導の「1982年憲法への道程」につなげることがここでの主なねらいである。}, pages = {105--134}, title = {1970年代中国憲法「改正」史論}, volume = {48}, year = {2015}, yomi = {トオリヤマ, ショウジ} }