@article{oai:chuo-u.repo.nii.ac.jp:00009389, author = {川越, 泰博}, journal = {人文研紀要}, month = {Sep}, note = {application/pdf, 明の北辺を侵掠したエセン(也先)率いるモンゴル軍を撃破するために、正統十四年(一四四九)七月から八月にかけて西進を続ける英宗の親征軍が、山西省の大同まで来てもモンゴル軍の姿を捕捉できず、行軍の方向を転じて東還を開始したのは、八月三日のことであった。モンゴル軍の包囲攻勢を受けて、明軍が覆滅するという悲劇に襲われる土木堡に到着したのは、東還を開始してからわずか一週間余り後の十四日のことであった。五十万と号する大軍は壊滅的打撃を蒙った。かかる地獄のような戦場から命からがら生きて脱出したものも一部いたが、それ以外の多くは戦没した。これは明代の軍事体制そのものに甚大な軍事的打撃を与え、事変後樹立された景泰政権にとって、軍事体制の再建は焦眉の急の問題となった。  これまで全く知られていないことであるが、多大な損害を蒙った親征軍中には多くの中国在住のモンゴル人衛所官軍が含まれていた。知られていなかったのは、それを裏付ける史料が従来存在しなかったためである。そこで、私は、新出史料にもとづいて断簡零墨な記述を集め、それらを分析し、親征軍に組み込まれて土木堡においてモンゴル軍と干戈を交えたモンゴル出身の衛所官軍について多角的に検討して、いくばくかの未知の史実を掘り起こし、土木の変は在華モンゴル人衛所官軍にとっていかなるものであったかを究明した。}, pages = {167--200}, title = {土木の変における在華モンゴル人の衛所官軍について}, volume = {91}, year = {2018}, yomi = {カワゴエ, ヤスヒロ} }