@article{oai:chuo-u.repo.nii.ac.jp:00009390, author = {荷見, 守義}, journal = {人文研紀要}, month = {Sep}, note = {application/pdf, 中国明朝万暦九年(一五八一)の遼東鎮では総兵官李成梁専権への道が切り開かれつつあったと言われる。これは遼東に睨みを効かせていた張居正の門生である巡按山東監察御史劉臺が、こともあろうに張居正の専横を弾劾したことから、却って張居正の意を受けた勢力によって失脚に追い込まれ、政争の末に劉臺、張居正と相次いでこの世を去ったことによる。万暦九年当時の巡按山東監察御史于応昌はこの劉臺失脚に手を貸した張居正派の人士であったと同時に、李成梁とも気脈を通じていたと見られている。時あたかも、遼東鎮はモンゴル勢力からの波状攻撃を受けており、これに毅然と立ち向かった遼陽副総兵官曹簠を却って于応昌は手厳しく弾劾して結果として失脚へと追い込んだ。このことは李成梁が曹簠を快く思わなかったからとも言われるが、これに関連する『明実録』記事を明朝档案史料との比較から再検討した。}, pages = {201--234}, title = {曹簠と于応昌 ―明代万暦初期の監察事例から―}, volume = {91}, year = {2018}, yomi = {ハスミ, モリヨシ} }